この文章は歴史家・東恩納寛惇先生が昭和三十四年(一九五九年)に沖縄県立第一中学校・首里高等学校創立八十周年記念誌『養秀』に投稿いただいた~「海邦養秀」額に題す~より転載したものです。さらに創立百二十周年記念『養秀そうし』よりより転載された文面を元に原文を尊重しつつ現代かなづかいに直すなどできるだけ若い方にも読みやすくするために多少手を加えたものです。
「海邦養秀」額に題す 東恩納寛惇

この額は、もと本校の前身である県立一中の表玄関に掲げられてあったもので、本来首里の国学から移管したものである。書風の美と、文句の善によって、有名なものであったが、過般の戦災で失われたのは千秋の恨事であった。阿波根校長着任以来その復元を企画され、今回漸く完成を見、本来の偉観を取り戻すことのできたのは、同慶のいたりである。
事新しくいうまでもなく、この文句及び書は、時の国王尚温の作で、尚温は近代まれにみる名君で、特に沖縄教学の基盤をおいた人である。尚敬・尚穆(しょうぼく)二代は沖縄文教興隆期で、程順則・蔡温等の碩学(せきがく)もこの時代に出た。尚温は、尚穆の孫として一七八四年に生まれ、世子尚法が二才で夭亡(ようぼう)したために、そのあとを承けて世子に立ち、一七九五年、十二才で王位を践(ふ)んだ。
尚温の生まれる前年には、例の阿嘉直識遺言状が出て、又五十年前には蔡温の教条が発表されて、直識らもその感化を受けたものであった。されば尚温も亦この時代の思潮にのって生まれたるものといえる。蔡温は初め朱子学を学び、後に実学に転じた人で、現に国王尚敬の国使として、実学真秘を進講した。
実学は、清初に、直隷の人、顔元(習齎)が唱えた学風で、従来の陸王学や朱子学が、理論に奔るキライあるをうとんじ、社会全体のために実利実用の学をたてんと期し、「墾荒・均田・興水利」の七字を以って標語とするもので、蔡温一代の業績も亦この七字につきている。而して顔元の思想は遠く荀子の系統を引くもので、荀子が孟子を非難した言に、「弁にして用なく、事多くして功すくなく以て治の綱紀とすべからず」とある如き、明らかに、実功を重んじたその思想を認むべきもので、その門人たる韓非子に至って、不言実行を提唱したのも尤もである。荀子の言にまた「信を信とするのは信なり、疑を疑とするのも亦信なり、賢を尊ぶのは仁なり、不肖を賤しむも亦仁なり」とある如き一種の法理論で、この思想が李斯(りし)、韓非子等の法家の発足となっていった。
一七九五年、尚温十四の時に、例の官生事件がおこった。これまで久米村から四人出していた北京留学生の中、二人だけは首里から出し、又従来詩文経籍を主とした科目をあらためて、政治経済の研究に当たらせる構想で、久米村の猛烈な反対をおし切って実行にうつし、その翌年首里松崎に国学を創建し、久米村中心の芸文がはじめて首里に移った。
海邦養秀額は、国学創建の際、尚温自ら揮毫して、正庁に掲げたもので、その翌年の一八〇〇年に、詩人として著名な李鼎元(りていげん・墨荘)が冊封使として沖縄に来た。滞在中李大人はその書簡を見て、国王の能書はかねがね耳にはしていたが、親しく接するのはこれが始めで、「松雪の筆意、この役第一の家宝を得た」とよろこんだ。李大人が尚温を評した言に、「世孫、年十七、厚重簡黙、儀度雍容白哲にして豊頣(ほうしん)」とある。色白でおっとりした、口かずの少ない福々しい人相が目に見えるようで而してその人柄が額面にも遺憾なくあらわれている。
冊封の式場で、李大人は「海表恭藩」四文字の嘉慶帝の勅額をもたらし、且つその題字の意義を敷衍(ふえん)して、「聖朝道を重んじ、文を右にし意を加え、仁義礼楽を以て万邦を懐柔する」主意を述べた。この時から約二百年も前の一五七九年に万暦帝は「守礼之邦」の勅額を国王尚永に贈ったことがあったが、海邦養秀の「海邦」という成語はおそらく海表と礼邦とを組み合わせたものであろう。国学創建の時、尚温が学生を集めて一場の訓旨を与えた中に、「教化を興し、人材を育せば、風教修明、賢才尉として起らん」の語があるから、養秀と云うのは、「人材を育する」意味であることは勿論であろう。尚温は同じ訓旨の中にこんなことも云っている。
学問はすべて実行にうつさなければ何の役にも立たない。権勢におもねり、私利を営み、党派をかまえて、他人を陥れる如きは、深く戒むべきことである。
特に学問に精励し、実績をあげたものは、凡民の子弟であっても抜擢する。しからざるものは、名門の子弟であっても容赦はしない。
これは荀子勧学篇にも略々同一のことを云っている。尚温の思想が荀子に出て実学の感化を受けていることは、これによっても明らかで、空理空論に奔らず、実際に即して、有用の人材を育成し、礼邦恭藩の名に添う文化国家を建設せんとした趣旨を十分にうかがうことができる。
されば「海邦養秀」の文句は吾が郷学の指針であると云える。特に今日吾等の郷里が外国の植民地となって了(おわろ)うか、一千年の文化をふりかえって、郷国の名分を完(まっと)うするかの瀬戸際に立たされている現状で、青年学徒が真に「海邦養秀」の真意を体得して民族的自覚を取りもどすことは、極めて意義あることで、この時この際この額が復元して、諸子に一大指針を与えたことは、天の啓示であると考える。
東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)一八八二~一九六三
歴史家。号は虬州(きゅうしゅう)。一中の前身、沖縄県立中学校を卒業し、東京帝国大学文科史学科に進み国史を専攻。六十年かけて収集された蔵書は、東恩納寛惇文庫として沖縄県立図書館に所蔵されている。沖縄研究の業績は、前近代を中心とする歴史研究やその他に地名・人名・医学・工芸・芸能・文学・物産など幅広い。『東恩納寛惇全集』(全十巻・別冊Ⅰ、第一書房)などを著す。
「海邦養秀」額に題す 東恩納寛惇
この額は、もと本校の前身である県立一中の表玄関に掲げられてあったもので、本来首里の国学から移管したものである。書風の美と、文句の善によって、有名なものであったが、過般の戦災で失われたのは千秋の恨事であった。阿波根校長着任以来その復元を企画され、今回漸く完成を見、本来の偉観を取り戻すことのできたのは、同慶のいたりである。
事新しくいうまでもなく、この文句及び書は、時の国王尚温の作で、尚温は近代まれにみる名君で、特に沖縄教学の基盤をおいた人である。尚敬・尚穆(しょうぼく)二代は沖縄文教興隆期で、程順則・蔡温等の碩学(せきがく)もこの時代に出た。尚温は、尚穆の孫として一七八四年に生まれ、世子尚法が二才で夭亡(ようぼう)したために、そのあとを承けて世子に立ち、一七九五年、十二才で王位を践(ふ)んだ。
尚温の生まれる前年には、例の阿嘉直識遺言状が出て、又五十年前には蔡温の教条が発表されて、直識らもその感化を受けたものであった。されば尚温も亦この時代の思潮にのって生まれたるものといえる。蔡温は初め朱子学を学び、後に実学に転じた人で、現に国王尚敬の国使として、実学真秘を進講した。
実学は、清初に、直隷の人、顔元(習齎)が唱えた学風で、従来の陸王学や朱子学が、理論に奔るキライあるをうとんじ、社会全体のために実利実用の学をたてんと期し、「墾荒・均田・興水利」の七字を以って標語とするもので、蔡温一代の業績も亦この七字につきている。而して顔元の思想は遠く荀子の系統を引くもので、荀子が孟子を非難した言に、「弁にして用なく、事多くして功すくなく以て治の綱紀とすべからず」とある如き、明らかに、実功を重んじたその思想を認むべきもので、その門人たる韓非子に至って、不言実行を提唱したのも尤もである。荀子の言にまた「信を信とするのは信なり、疑を疑とするのも亦信なり、賢を尊ぶのは仁なり、不肖を賤しむも亦仁なり」とある如き一種の法理論で、この思想が李斯(りし)、韓非子等の法家の発足となっていった。
一七九五年、尚温十四の時に、例の官生事件がおこった。これまで久米村から四人出していた北京留学生の中、二人だけは首里から出し、又従来詩文経籍を主とした科目をあらためて、政治経済の研究に当たらせる構想で、久米村の猛烈な反対をおし切って実行にうつし、その翌年首里松崎に国学を創建し、久米村中心の芸文がはじめて首里に移った。
海邦養秀額は、国学創建の際、尚温自ら揮毫して、正庁に掲げたもので、その翌年の一八〇〇年に、詩人として著名な李鼎元(りていげん・墨荘)が冊封使として沖縄に来た。滞在中李大人はその書簡を見て、国王の能書はかねがね耳にはしていたが、親しく接するのはこれが始めで、「松雪の筆意、この役第一の家宝を得た」とよろこんだ。李大人が尚温を評した言に、「世孫、年十七、厚重簡黙、儀度雍容白哲にして豊頣(ほうしん)」とある。色白でおっとりした、口かずの少ない福々しい人相が目に見えるようで而してその人柄が額面にも遺憾なくあらわれている。
冊封の式場で、李大人は「海表恭藩」四文字の嘉慶帝の勅額をもたらし、且つその題字の意義を敷衍(ふえん)して、「聖朝道を重んじ、文を右にし意を加え、仁義礼楽を以て万邦を懐柔する」主意を述べた。この時から約二百年も前の一五七九年に万暦帝は「守礼之邦」の勅額を国王尚永に贈ったことがあったが、海邦養秀の「海邦」という成語はおそらく海表と礼邦とを組み合わせたものであろう。国学創建の時、尚温が学生を集めて一場の訓旨を与えた中に、「教化を興し、人材を育せば、風教修明、賢才尉として起らん」の語があるから、養秀と云うのは、「人材を育する」意味であることは勿論であろう。尚温は同じ訓旨の中にこんなことも云っている。
学問はすべて実行にうつさなければ何の役にも立たない。権勢におもねり、私利を営み、党派をかまえて、他人を陥れる如きは、深く戒むべきことである。
特に学問に精励し、実績をあげたものは、凡民の子弟であっても抜擢する。しからざるものは、名門の子弟であっても容赦はしない。
これは荀子勧学篇にも略々同一のことを云っている。尚温の思想が荀子に出て実学の感化を受けていることは、これによっても明らかで、空理空論に奔らず、実際に即して、有用の人材を育成し、礼邦恭藩の名に添う文化国家を建設せんとした趣旨を十分にうかがうことができる。
されば「海邦養秀」の文句は吾が郷学の指針であると云える。特に今日吾等の郷里が外国の植民地となって了(おわろ)うか、一千年の文化をふりかえって、郷国の名分を完(まっと)うするかの瀬戸際に立たされている現状で、青年学徒が真に「海邦養秀」の真意を体得して民族的自覚を取りもどすことは、極めて意義あることで、この時この際この額が復元して、諸子に一大指針を与えたことは、天の啓示であると考える。
東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)一八八二~一九六三
歴史家。号は虬州(きゅうしゅう)。一中の前身、沖縄県立中学校を卒業し、東京帝国大学文科史学科に進み国史を専攻。六十年かけて収集された蔵書は、東恩納寛惇文庫として沖縄県立図書館に所蔵されている。沖縄研究の業績は、前近代を中心とする歴史研究やその他に地名・人名・医学・工芸・芸能・文学・物産など幅広い。『東恩納寛惇全集』(全十巻・別冊Ⅰ、第一書房)などを著す。